投げ縄を手にし、誰ひとり取り逃がさないと説かれる観音。
不空羂索観音とはどんな仏か
不空羂索観音をひとことで言えば投げ縄を持つ観音です。名の三つの語が、そのまま性格を表しています。
羂索は、狩りや戦で使う投げ縄のことです。獲物に投げて絡め取る道具で、不動明王も左手に握ります。
不空は「むなしくない」、つまり空振りしないという意味です。あわせて「投げれば必ず捕らえる縄を持つ観音」となります。救いの手が届かない者はいない、という考え方を道具のたとえで示したものです。
奈良時代の日本で、この観音はきわめて重んじられました。東大寺法華堂の本尊がこの仏であり、興福寺南円堂の本尊もこの仏です。藤原氏が氏寺の中心に据えたことが、その広まりを支えました。
平安時代以降は千手観音や十一面観音に押され、新しく造られる数は減っていきます。それでも今に残る像は、いずれも日本の彫刻を代表するものばかりです。
不空羂索観音の読み方と梵名
読みは「ふくうけんじゃくかんのん」です。「けんさく」と読む例もあります。
「羂索」の「羂」は、わなや網を意味する字です。日ごろはまず使いません。
名は梵名アモーガパーシャを意味で訳したものです。「アモーガ」の語は、金剛界五仏の不空成就如来の名にも入っています。どちらも「投げたものが空を切らない」という同じ意味を持ちます。
不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)
もっとも広く使われる形。
不空羂索観世音菩薩(ふくうけんじゃくかんぜおんぼさつ)
正式な形。
不空羂索観自在菩薩(ふくうけんじゃくかんじざいぼさつ)
玄奘の訳にもとづく形。
不空王(ふくうおう)
略した呼び方。
アモーガパーシャ(Amoghapasa)
意味は「むなしからぬ投げ縄」。「アモーガ」がむなしくない、「パーシャ」が投げ縄を指す。読みは「あもーがぱーしゃ」。
不空羂索観音の見分け方(印相・持ち物・姿)
不空羂索観音の見分けは、肩から斜めにかかる鹿の皮にあります。この一点だけで、ほかの観音と分かれます。
鹿皮 ─ 左肩から斜めにかける
左の肩から鹿の皮を斜めにかけます。これを鹿皮衣といいます。
鹿の頭や足がそのまま残された作例もあり、遠目にも布とは違うことがわかります。
鹿の皮をまとう仏は、日本の仏像でほかにほとんどありません。 迷ったらまず肩を見るのが早道です。生きものを殺さずに得た皮とされ、慈悲のしるしとして説かれます。
持ち物 ─ 羂索と、その他の法具
手のひとつに羂索を握ります。縄を輪にして持つ形が多く、先に金具を付けた作例もあります。
そのほか蓮華・錫杖・払子などを持ちます。腕の数によって持ち物は増減します。
不動明王も左手に羂索を握ります。縄を持っているだけでは不空羂索観音と決められません。 顔が穏やかか怒っているかで分かれます。
顔と腕 ─ 三目八臂が多い
額に縦の目をひとつ加えた三つの目を持つ作例が多くあります。
腕は八本が標準ですが、四本、六本、十八本、三十二本と定めた経典もあり、一定しません。東大寺法華堂の像は三目八臂です。
顔は一つが原則です。十一面観音のように頭上に小面を並べることはありません。
宝冠 ─ 化仏を戴く
観音なので、宝冠の正面に小さな阿弥陀如来の像を戴きます。
東大寺法華堂の像の宝冠は銀製で、大量の玉をちりばめた華麗なものとして名高く、宝冠だけでも見応えがあります。
装身具は菩薩の決まりに従い、瓔珞・腕釧・臂釧を着けます。台座は蓮華座です。
不空羂索観音のご利益
一切の願いをかなえる
空振りしないという名にちなむ。
厄除け
羂索で災いを絡め取るとされる。
病気平癒
経典に、この観音の真言が病を除くと説かれる。
極楽往生
観音の本領として説かれる。
不空羂索観音に会える寺
不空羂索観音の像は、奈良と京都の古い寺にまとまって残ります。数は多くありませんが、そのぶん一躯ずつの格が高く、国宝が三件あります。
ここに挙げたのは、所有者が寺であることを文化庁の国指定文化財等データベースで確かめられたものだけです。
なお奈良には、所有者が「東鳴川観音講」と登録された重要文化財の坐像もあります。地域の講が守ってきた像で、寺の所有ではないため、この欄には入れていません。
東大寺 法華堂(とうだいじ ほっけどう)
国宝
法華堂の本尊で、日本の乾漆像を代表する一躯です。三つの目と八本の腕を持ちます。
宝冠は銀を打ち出して造り、大量の玉をちりばめたもので、これだけでも国宝級の工芸品とされます。
同じ堂には国宝の塑造執金剛神立像も安置されており、奈良時代の彫刻がまとまって残る、日本でも数少ない堂です。
同じ寺には毘盧遮那仏坐像、銅造釈迦多宝如来坐像もある。
興福寺 南円堂(こうふくじ なんえんどう)
国宝
康慶の作とわかっている坐像です。康慶は運慶の父にあたる仏師です。
八角形の堂の中心に据えられ、四天王像がこれを囲みます。
年に一度、十月十七日に開扉されます。文化庁の国指定文化財等データベースでは、所有者が興福寺と記されています。
同じ寺には国宝の乾漆八部衆立像、木造薬王薬上菩薩立像もある。
不空羂索観音をめぐる仏のつながり
不空羂索観音の位階と、似た仏との違い
不空羂索観音は菩薩の位に置かれます。観音菩薩の変化身のひとつです。
仏には如来・菩薩・明王・天部という四つの位階があります。不空羂索観音は菩薩です。
観音菩薩は相手に応じて姿を変えると説かれ、その変化身に十一面・千手・如意輪・馬頭・准胝・不空羂索などがあります。七観音のひとつに数えられます。
六観音に数えるか七観音に数えるかは宗派で分かれ、天台宗では不空羂索観音を加えて七観音とし、真言宗では准胝観音を入れて六観音とします。
千手観音 ─ 腕の数が違う
どちらも腕を多く持つ観音です。千手観音は四十二本、不空羂索観音は八本が標準です。
千手観音は頭上に十一の小面を戴くことが多く、不空羂索観音は戴きません。
決定的なのは鹿の皮です。肩に鹿皮をかけていれば不空羂索観音です。
不動明王 ─ どちらも羂索を持つ
不動明王も左手に羂索を握ります。持ち物が重なります。
顔が決め手です。 不動明王は目を見開き牙をむく忿怒の相で、背に火焔を負います。不空羂索観音は穏やかな顔で、火は背負いません。
位階も違います。不動明王は明王、不空羂索観音は菩薩です。
十一面観音 ─ 頭に小面があるかどうか
十一面観音は頭上に十一の小さな顔を戴きます。不空羂索観音は戴きません。
腕の数も違い、十一面観音は二本、不空羂索観音は八本が標準です。
頭上を見て小面が無く、肩に鹿皮があれば不空羂索観音と判じてよいでしょう。
不空羂索観音についてよくある質問
不空羂索観音とはどんな仏ですか。
投げ縄を手にする観音です。投げれば必ず捕らえる縄で人を救い取り、取りこぼしがないと説かれます。
不空羂索観音はどう見分けますか。
左肩から鹿の皮を斜めにかけます。鹿皮をまとう仏はほかにほとんどないため、これが決め手になります。
羂索とは何ですか。
狩りや戦で使う投げ縄です。不動明王も左手に握ります。相手を絡め取って引き寄せる道具で、救いのたとえに使われます。
不空羂索観音のご利益は何ですか。
あらゆる願いをかなえることが本領とされます。空振りしないという名にちなみ、厄除けや病気平癒にも祈られます。
不空羂索観音の像はどこで見られますか。
奈良の東大寺法華堂、興福寺南円堂、京都の広隆寺講堂に、それぞれ国宝の像があります。興福寺南円堂は年に一度の開扉です。
不空羂索観音と併せて覚えたい言葉・用語
羂索(けんじゃく)
狩りや戦で使う投げ縄。相手を絡め取って引き寄せる。
鹿皮衣(ろくひえ)
肩から斜めにかける鹿の皮。不空羂索観音の目印。
三目八臂(さんもくはっぴ)
目が三つ、腕が八本の形。
乾漆(かんしつ)
麻布を漆で貼り重ねて像を造る技法。奈良時代に盛んだった。
康慶(こうけい)
鎌倉時代の仏師。運慶の父。興福寺南円堂の本尊を造った。